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飛び立つとき

by 理

 幼い横顔に照りつけていた光がやわらいで、下校時刻を過ぎて誰もいなくなってしまった校庭が、みるみる灰色の影に覆われていく。

 吹き込んでくる風が、教室に湿った土の香りを運ぶと、窓際に置かれた虫かごのバッタが、雨の不安に煽られたように何度も跳ね上がった。

 咲希は椅子から腰を浮かせて、窓を閉めた。

 これで大丈夫。そう思ったのに、自然の中で暮らす生きものほど気候の変化に敏感なのか、褐色のバッタはいつになっても落ち着きそうになかった。プラスチックの壁に何度もぶつかっては、鈍い音を鳴らしている。

 うまく跳べないようだった。未熟な後ろ足の片方は、節の先が失われてしまっている。

 虫かごを気にかけていると「聞いてる?」と、ため息の混ざった女の声がして、咲希は正面に向き直った。

 机を挟んだ向こう側で眉をひそめているのは、五年一組の担任、萩原だ。答えを待ち続けることに苛立ちを感じているのか、視線は険しい。

「咲希ちゃんがバッタにいたずらをしたりしないって、先生はちゃんとわかってるよ。でも、もし二十分休みの間に何かあったのなら、教えてくれないかな」

 咲希は何も答えずに、唇を横に引いた。

 虫かごのバッタは、五組にいる昆虫好きの男子が持ってきてくれたものだ。

 観察しているうちに、体長の何倍もの高さを跳ぶ、脚の構造に興味が湧いた。蓋の小窓から手を入れたら、バッタが跳ね回って小指の先を掠った。ふと気が付いたら足がなくなっていた。

 そうやってありのままを伝えても、どうせ信じてはもらえない。自分でさえ信じられないような出来事だったからだ。それに突然湧き上がってしまった、触れてみたいという衝動を、上手く説明することができそうにない。咲希は唇を固く結ぶ。

「知らないなら、知らないって言ってくれたらいいんだよ。先生はその言葉を信じるし、これ以上もう何も訊かない」

 萩原は胸元に滑り落ちた髪を背中に払って、机の上で指を組んだ。

「先生には話しづらいかな?」

 咲希は黙って首を横に振った。

「困ったな。日向くん、バッタの足がなくなってしまったのを知ったら、色々考えてしまうかもしれないから」

 疲れの混じった息が吐き出されたとき、教室の扉がゆっくりと開いた。萩原は弾かれたように椅子から立ち上がった。

 扉に目を向けると、いつもなら自宅で帰りを待っているはずの祖母がいた。慌てて家を出てきたのか、化粧のひとつもしていない。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

 掠れた声でそう言って、白髪交じりの頭を下げる。咲希はなかなか持ち上がりそうにない祖母のつむじを、見るともなく見つめていた。

 鉛色の雲がどこまでも背中を追いかけてくる。肩で切り揃えられた髪を湿った風に乱しながら、咲希は坂を駆け上った。

 スーパーの前で祖母と別れた後に向かったのは、自宅から十分ほどの場所にある空き地だ。この町に越してきて一ヶ月経つが、そこを知ったのはつい最近だ。

 空き地の入り口には、いつもロープが張られている。教室を二つ繋げた位の広さで、青々と茂る草には、車のタイヤに踏まれた跡もない。右奥にあるペンキが剥げかかった鉄門の両側には、高木が塀のようにそびえて、その先に続く庭らしき場所の目隠しになっている。

 咲希は通行人の目を気にしながら、入り口に垂れ下がったロープを跨いだ。草むらを進み、目的の場所に辿り着くと、ランドセルを下ろしてしゃがみこむ。目を凝らし、穴の開いた若葉を探した。

 この町に越してくる前に、柔らかな葉が密に重なった植物に、バッタが群がっているのを見たことがあった。それと同じ植物がこの空き地にあることを、帰り際に思い出したのだ。

「やっぱりいた」

 緑に紛れ込んだ、親指の先ほどのバッタを見つけ、咲希は慎重に胴体をつまみ上げた。裏返してよく観察する。

 顔のすぐ下から、か細い前足が二本。中腹から同じような足がまた二本伸び、さらにその下には、太くて長い後ろ足が畳まれている。よく見ればこのバッタも、後ろ足の片方が千切れてしまっている。教室のバッタと同じ状況だ。

 痛みは感じないのだろうか。咲希が切れた足の先に触れると、幼虫はわずかに足を動かした。

 もう一度虫食いの葉に目を向けたとき、咲希の視界が人影に覆われた。

「完品探しかな?」

 指先をすり抜けて、バッタは草むらへと跳ねた。振り返ると、頬骨が突き出すほど痩せた男が咲希を見下ろしていた。

 父と同じくらいの年齢だろうか。皺だらけのシャツと膝が伸びきったスラックス。くたびれた格好と対照に、表情は明るい。

 男は咲希のすぐ隣で膝を折り、日焼けして硬くなった葉を持ち上げた。

「この時期はまだ小さいから、見つけにくいかな。そこを掴んで、ばさばさって振ってごらん。隠れているのがたくさん出てくる」

 咲希は言われるがまま茎を掴んで、軽く揺すってみた。とたんに黄緑色の生き物が四方に飛び散った。

 驚きの声はどうにか飲み込んだものの、仰け反った勢いで尻餅をついてしまった。男は咲希のシャツの袖に指を伸ばし、止まっていた一匹を器用につまみ上げた。

「よし、これは大丈夫そうかな」

 唖然とする咲希をよそに、男はバッタの状態をよく確認し、満足げに頷いた。それからしばらくして「あ、ごめんね」と、今しがた気づいたかのように、咲希を引っ張り起こした。

 普通なら大人はこういうとき、まず子供の怪我を心配する素振りを見せ、その次に洋服の汚れを気にかける。それなのに彼にとっては、バッタを捕まえることが何よりも優先すべきことらしい。再び昆虫を見つめた目が、好奇心旺盛な子供と変わらないように感じて、咲希の中におかしさがこみ上げてきた。

「手を出してごらん」

 手のひらを差し出すと、男はそこにバッタを乗せた。咲希は両手のひらを丸めて合わせ、即席の虫かごを作った。

「家に虫かごはあるの」

男が訊いてきた。首を横に振ると「一つあげようか」と言われてためらった。

 バッタを学校に持って行くまでは、空き箱に入れておこうと考えていた。だが、虫かごという言葉を聞いて、本当に箱で大丈夫だろうかと改めて疑問が湧く。あれだけ脆い生き物なのだ。

「玄関にたくさん置いてあるから、どれでも気に入ったのを持っていくといいよ。すぐそこだから、ちょっとついておいで」

 男の目線は、古びた門の向こう側に向けられている。どうするべきか決めきれずにいると、男は突然「ああ、そうか」と手を打った。

「そういうのがだめな時代か。今、ここにいくつか持ってくるから待っててくれる?」

 腰を押さえながらゆっくりと立ち上がり、男が微笑みかけてきた。

 なぜだかわからないが、悪い人間には見えなかった。他の大人と違って、取り繕ったところがないからかもしれない。出会ってからたった数分だったが、咲希にはこの男がこれまで会った大人とは、少し違うような気がした。

 手のひらの中のバッタが、咲希を急かすように二度跳ねた。

「大丈夫、行く」

 立ち上がった勢いのまま、門に走った。男は草むらに置き去りになったランドセルを持ち上げて、慌てて後を追いかけてくる。

 両肘でさびついた門を押した。古いポストには『風見』と書かれた、湿気に波打った紙が貼られている。

「おじさんは風見さんっていうんだね」

 咲希は振り返った。

「ひどい表札だろう、雨が降れば一発で終わりだ。まだ引っ越してきたばかりで色々と揃っていなくてね」

 そう言いながらも、風見の声は楽しげだ。

「必要なものもないのに、虫かごはたくさんあるの?」

「そういうことになるね」

「おじさんは虫が好きってこと?」

「とても興味がある」

「それなら、こういうジャングルみたいなお庭も楽しいかもね」

「君もそう思うかい?」

 風見は優しく目を細めた。ポケットから、てんとう虫のキーホルダーがぶら下がった鍵を取りながら、咲希の一歩前に出る。

 長らく手入れがされていなかったのだろう、壁を蔦が取り巻いた白い洋館までの道は、すっかり雑草に覆われてしまっている。足元に注意を払いながら背中を追っていると、風見がふと足を止めた。

 咲希は顔を上げた。ちょうど目線の高さを蝶がひらひらと横切っていく。

「ここでは人よりも虫が優先さ。だから道は譲らないとね」

「どうして虫が優先なの?」

「地球は昆虫の惑星だからね。今、人間に知られている生物は大体百七十万種類いるけれど、そのうち百万が昆虫だ。まだ誰にも発見されていない種類を合わせれば、この十倍以上になるかもしれない」

 完全に通り過ぎるのを待ってから、風見はまた歩き始めた。

「虫ばっかり」

「虫ばっかりだね。種類だけじゃなく数も多い。すごいだろう?」

 風見の視線を追って、咲希は頭上をぐるりと見渡した。蝶は一匹ではなかった。何匹も、頭の上を緩やかに羽ばたいている。草むらにも生き物の気配があった。この庭だけでもたくさんの種類の昆虫が見つけられるかもしれない。木の幹や草葉、地面に目を凝らせばいくらでも出てきそうだ。

「おじさん、もしかして理科の先生?」

「惜しい。ぼくは蝶の遺伝子を研究しているんだ」

「遺伝子? それって何の役に立つの?」

「本能の解明さ」

「本能って?」

「生きものに初めから備わっている、何かを教わらなくてもできる行動のことだよ。昆虫は人間と違って、行動のほぼ全てが本能なんだ」

「じゃあ本能がわかると、どんなことがわかるようになるの?」

「地球のことがわかるようになる。過去も未来もね」

 咲希は卵の形に組み合わせた、自分の手に視線を落とした。

 手のひらには、たしかに命の感触がある。昆虫の研究で、本当に地球の過去も未来もわかるようになるものだろうか。信じられないような話なのに、風見がいい加減なことを言っているように感じないのが不思議だった。

 玄関に着くと、風見は大きくドアを開け放った。

 男物の靴だけが並んだ玄関。靴箱のすぐ上には、大小さまざまな虫かごが乱雑に積み上げられていた。まだ片付けの最中なのだろう、玄関から繋がった長い通路の左半分を埋め尽くすように、ダンボールの箱が一列に並べられ、その上に同じ数の木箱が乗せられている。

 風見はランドセルを下ろし、いくつか虫かごを取った。

「どれがいい?」

「その緑の蓋のやつ」

 咲希はランドセルの中に入る大きさの、取っ手のある虫かごを選んだ。風見は蓋を外して、虫かごを咲希の手元に差し出した。

 手のひらの中で跳ねていたバッタをそっとかごに放って、閉じ込める。

「おまえはあの子と違って、おとなしいのね」

 かごを目線の高さに持ち上げて、咲希は幼虫を見つめた。

「あの子?」

「教室で茶色いバッタを飼っているの。まだ子供なのに、手が当たったときに足が取れちゃって」

 言いながら二十分休みの出来事を思い出し、声が尻すぼみになっていく。

「ああ、それで代わりのバッタを探しにきたってわけか。あんまり気にすることはないよ。バッタの幼虫は、もともと後ろ足が取れやすいものだからね。ちょっと驚かせただけでぽろっといったりもするもんだ」

「そうなの?」

 咲希は風見に目を向けた。

「ああ」

 風見はさも当たり前のように返事をしながら、靴箱の上の虫かごを並べ直している。

「命の危険から逃れるために、体の一部を犠牲にするようにできているんだ。脱皮しながら大人になっていくから、そのときに足もまたできるかな」

「じゃあ治るの?」

 咲希は答えを求めて詰め寄った。

「完全に元通りの長さとはいかなくても、大体今よりも良くなるね。その茶色いバッタもこの先よく観察してみるといいよ。ちょうどいい勉強になるだろうから」

 風見の淀みない話し方に、希望が見えてくる。虫かごを抱いたまま、咲希は安堵の息を吐き出した。

「よかった。もうあの子はずっと、斜めにしか跳べなくなっちゃうのかと思った」

「ちなみに蝶の場合は、幼虫のときに足がだめになってしまっても、大人になれば足はきちんとできるよ。芋虫が蝶に変わるときに、引き継がれない遺伝子情報があるんだ。不思議だろう?」

 咲希は素直に頷いた。

「昆虫にもっと興味が湧いてきただろう」

 風見の念押しするような言い方がおかしくて、咲希はつい笑ってしまった。

「少し」

「そうか。それなら君に話しかけた甲斐があった。面白い話はたくさんあるんだけど、もう暗くなってきたから帰ったほうがいいかな。おうちの人が心配するとよくない」

「おじさん、わたし咲希っていうの」

「おお、咲希ちゃんか。そういえば虫の話ばっかりで、名前も聞いていなかったね」

 風見は頭を掻きながら苦笑いした。

「学校の虫かごにこのバッタを合わせたら、借りたかご返しに来るね。そのときにまた虫の話聞かせてくれる?」

「もちろん。いつでも遊びにおいで。夕方以降はだいたい家にいるから。この辺も片付けようと思っていたところだったしね」

 振り返った先の荷物の山を見て、風見は肩をすくめる。

「ねえ、あのタンスみたいな引き出しはなに?」

 咲希がダンボールの上に乗った木箱を指した。

「標本タンスだよ。これはまた今度のお楽しみだ」

 頭の丸みに沿って、風見の手のひらが乗った。不慣れな感覚にくすぐったさを覚えて、咲希は唇をかみしめていた。

 褐色のバッタと黄緑色のバッタが、一つの虫かごに同居している。似たような形をしているが、どうやら種類が違うようだ。

 図鑑で調べたところによると、一昨日咲希が取ってきた黄緑色のバッタは、オンブバッタというらしい。香りが強く柔らかい、シソの葉をよく食べる。

 初めからそこにいたもう一匹は、ショウリョウバッタだ。イネ科の植物が好物で、ぴんと張った細長い草ばかりにしか興味を示さない。二匹とも驚くほど食欲旺盛だ。

 たくさん食べて早く脱皮すればいい。そうすれば、あの不恰好な足も治るはずだ。人のはけた教室で咲希がバッタに夢中になっていると、扉が開いた。ジャージ姿の荻原だ。

 どうやら二十分休みには、一人にしておいてはくれないらしい。昨日の今日で、教室に残しておけないと思う気持ちがあるのかもしれない。

 咲希は虫かごを離れて、自席に戻った。机の中から本を一冊取り出す。昨晩祖母に頼みこんで、図書館から借りてきてもらったものだ。

「咲希ちゃんは今日も来ないの? みんな外で遊んでるよ。先生もみんなも校庭で待ってるんだけど、一緒に遊ぶのがいやなのかな」

「別にいやじゃないよ」

「それなら先生と行ってみない? 休み時間は一緒に遊んだ方が、みんなとすぐに仲良くなれると思うよ」

「わたしは行かないほうがいいと思うの。みんなのために」

「どうしてそう思うの?」

 萩原は咲希の机に近付いてきた。

「だって、わたしには校庭を駆け回ることの何が楽しいのかわからないし、そう思ってる人が混ざってたら、みんなおもしろくないでしょ」

 だからもう一人にしておいて、と言う代わりに本を開いた。けれども荻原は諦めが悪かった。すぐ隣の席に座り、横から本を覗き込んできた。

「今、どんなことに興味があるの?」

「本能」

「え?」

「先生、寂しくないよぜんぜん。わたしは今、好きなことをしているの。それともこの学校では、二十分休みには校庭に出ないといけないルールなの?」

 咲希が訊くと、萩原は力なく首を横に振った。

「でも、先生だけじゃなくてみんなも咲希ちゃんと遊びたいって思ってるから、読みたい本がないときには一緒に外で遊ぼうね」

「そうだね」

 わざと気のない返事をして、咲希は校庭ではしゃぐクラスメイトたちに目を向けた。一人でいると、それだけで寂しい人になってしまうのは、ほとんどの子供がそう感じるからなのかもしれない。けれど、人はみんな同じじゃない。

 萩原は机に手をついて席を立った。もう何も話しかけてはこなかった。咲希は内心ほっとしながら、再び本に目を落とした。

 左手の紙袋には、四日前に借りた虫かごが入っている。

 咲希が門の前に着いたとき、庭に風見の後姿を見つけた。シャツが汗で張り付き、背骨が浮き出している。どうやら、この門から家までの通り道を作ろうとしているようだ。フォーク状に先が分かれた草抜きで、ひっきりなしに地面を掘り返している。

「おじさん」

 門の外から声をかけると、風見は振り返った。目が合うと、土埃で汚れた顔が綻んだ。

「咲希ちゃんじゃないか」

「入ってもいい?」

「もちろん」

 力を込めて押した門が、あっけなく開く。あれから手入れされたようで、数日前の硬さが嘘のようだ。咲希は風見に駆け寄った。

「大変ね。手伝おうか?」しゃがんでランドセルを下ろそうとすると、

「いやいや、いいよ。ぼくも休憩したいから。いい加減疲れたよ、ふらふらだ」風見は額の汗をぬぐって立ち上がり、腰を伸ばした。

「草抜きが終わったら、次はここにタイルを敷こうかと思って、準備だけはしたんだけれど。なかなかその段階にならないものだね」

 視線を追うと、庭の隅に積み上げられた、赤茶の薄い板に辿り着く。

「お庭が広いのも、いいことばっかりじゃないんだね」

 咲希が神妙な顔で言うと、風見は苦笑した。

「家に上がっていくかい? そのうち咲希ちゃんが来るだろうと思って、お菓子を用意しておいた」

「え、わざわざ?」

 自分がここに来ることを楽しみにしてくれていた、ということだろうか。

「でもまあ、たいしたものじゃない。君の好みも知らないしね」

 風見は草抜きを置いて、咲希の手から紙袋を受け取ると、家に向かって歩き出した。

 中に入って一目で、家の中がすっきりしたことに気がついた。玄関に積まれた虫かごだけは相変わらずだが、通路のダンボールは片付いて、殺風景に感じるほど広々としている。

 咲希が通されたのは通路を進んだ先にある、薄暗い正方形の部屋だった。中央にはぽつんと木製のテーブルが置かれ、革張りのソファで四面囲まれている。家具らしい家具が他にない代わりに、蝶の標本が収められたガラスケースが壁全面に飾られている。リビングというよりは博物館の展示室のようだった。

 風見はキッチンへ向かった。椅子にかけたものの落ち着かず、咲希は壁に歩み寄った。

 一つのケースに、いくつもの蝶が並べられている。その翅はわずかな光を反射させ、鮮やかにきらめいている。標本を遠目で見たときには、なぜ同じ種類の蝶ばかりなのかと思ったが、よく見ればその一つひとつは、大きさも、色も、模様の濃さも違う。見入っていると、風見が戻ってきた。

「それはミヤマカラスアゲハだよ。オーロラみたいな翅だろう」

 テーブルの上に焼き菓子の乗せられた皿とマグカップを置き、風見は咲希の隣に並んだ。

「同じ蝶でも色が違うのは、捕まえた場所とか季節が違うからなんでしょ?」

「おお、よく知ってるね」

 風見は目を丸くした。

 蝶には育った地域だけではなく、生まれた季節による個体差もある。蛹のまま越冬し、暖かくなり始めてから羽化する春型は、体が小さくて色も淡いが、厳しい寒さを知らない夏型は大きくて色がはっきりしている。春型に比べて飛ぶ力も強い。

 ここに来る前に図書館の本で昆虫の勉強をしたということは伏せておいた。それを言って、話についていけなかったら、風見をがっかりさせてしまうかもしれない。

「同じ蝶ばかりを並べて不思議かもしれないけど、これは個体変異を調べていたときに集めたものでね。ミヤマカラスアゲハも、昔はもっと身近な存在だったんだけど、近頃はこの辺じゃ見られない」

「温暖化の影響?」

 覚えたての知識を思い起こしながら、おそるおそる咲希が訊く。

「そう。分布はどんどん北上してるんだ。蝶は環境に影響を受けやすい生き物だからね」

「このままだと、将来この蝶はいなくなっちゃうかもしれないんだね」

「それがねえ、そうとも言えないのが昆虫の面白いところなんだよ。生き延びるために少しずつ変わっていくんだ」

「遺伝子が?」

 その言葉を口にしたとたん、咲希の気持ちが昂った。風見の研究領域だ。

 風見は高い位置に飾られている標本を見上げた。

「突然変異した遺伝子が、環境の中で有利に働けば、その子孫が増えていくだろう? そうすると、それが地域に住む蝶の標準になっていくわけだけど。生き物には、必要な機能を備えるために、自分の力で遺伝子を変異させることはできないんだよな」

「地球が、生かそうとしているのね」

「そうなのかもしれない。偶然とは思えないほどよくできていて、驚かされる」

 咲希は改めて標本を眺めた。すぐ側にある、未知の世界。常に変化し続けていく、永遠に調べ尽くすことのできない不思議な世界だ。時間と共に変化を重ねるうちに、まったく別の種となるのだろうか。新たな蝶が生まれるまでの過程に想像を巡らせていると、風見の手が肩に下りてきた。

「紅茶が冷めてしまうからどうぞ」

 促されて咲希はソファにかけたが、桃のように甘い香りを漂わせている紅茶や、綺麗な色の紙で包装をされた焼菓子よりも、膨らんでいく新しい興味ばかりに心を囚われていた。

「ねえおじさん。遺伝子の変異で面白い例を教えて」

 風見はそれを聞いて、肩を揺らして笑った。

 笑われるほどおかしなことを言っただろうか。咲希が不思議に思っていると、風見が気を取り直そうとするように、一つ息を吐き出した。

「人間? 動物? それとも昆虫でいいのかな」

「昆虫」

 咲希が声を上げる。

「よし、オオカバマダラの話でもしようか。科学読みものにはどこにも書かれていない、面白い話があるんだ」

 

 ダイニングテーブルの上にボールを並べ、咲希は夕飯の準備を手伝っていた。菜箸で粉のはたかれた海老を取り、溶き卵に浸けてからパン粉の上を転がす。

 今日は父が早く帰って来ると言っていたが、まだどうなるのかはわからない。祖母の家に越してきてから仕事場が遠くなり、帰宅しない日も少なくない。

 父が夜中まで家に帰ってこないから寂しい、そんな感覚は、この町に越してきてから薄れていった。毎晩帰りを待ち侘びながら眠るよりも、帰ってこないものだと割り切って、祖母と慣れない二人暮らしをしている方が咲希の心も安まった。

 パン粉をつけ終わった海老を皿の上に並べていると、隣で茹で上がったばかりのじゃがいもを潰していた祖母が口を開いた。

「咲希ちゃん、最近帰りが遅いけど、お友達と遊んでるの?」

 何も答えずにいると、探るような視線が咲希に向けられた。

「スーパーの脇道を入ったところに、広い空き地があるでしょう? 咲希ちゃんが、空き地の奥にある門に入っていくのを見たって、田崎さんが言っててね。あの家に、年の近いお子さんがいるのかしらって話になって」

「子どもはいないよ。あの家のおじさんと友達になったの。蝶の遺伝子を研究してる人なんだ。おじさんの話は面白いの。夢中になってくると、話が難しすぎて何を言ってるかわからないときもあるけど。わからないと自分でどんどん調べたくなってくるんだよ」

 咲希はまくし立てた。

「だから最近図書館で難しい本を借りていたのね」

 口元に弱い笑みを浮かべてはいるが、祖母の目を見ると、それが肯定的な感情ではなさそうだとわかる。この町に引っ越してきて一ヶ月。友達を誰も連れてこないことを、祖母はずっと心配している。

「風見さんは、最近引っ越してきたばかりの方みたいね。近所の人に挨拶もするし、人当たりは良いみたいなんだけど、ときどきよその家の前をうろうろしているのを見かける、って聞いたから。一見いい人そうに見えても、今はわからないからねえ」

「おじさんはただ虫が気になるだけだよ。その地域でなかなか見かけない蝶を捕まえて、遺伝子を調べたりしているの。みんなが知らないだけで、そういう研究が人の役に立ったり、地球を助けたりしているんだよ」

 直接的に会うのをやめろ、とは口にしないが祖母の表情が険しくなってきた。咲希は椅子から立ち上がった。

「おばあちゃん、エビフライの準備終わったよ。冷蔵庫に入れておくね」

「咲希ちゃん」

 祖母の声が改まっていた。

「そのおじさんは本当にいい人なのかもしれないけれど、一緒にいて、もし咲希ちゃんまで何か言われてしまったら、おばあちゃんはやっぱりいやだなって思うよ。おばあちゃんは咲希ちゃんのことが大事だから。それにもし、知らない大人と二人で遊んでいるなんて、お父さんに知られたら」

 祖母は手を止めて、静かに息を吐き出した。その先を口にしなかったが、咲希は自然と、眉を吊り上げた父の顔を思い浮かべていた。

 仕事が上手くいっていないのか、父は夕食の一時間足らずの時間でさえ、いつも難しい顔をしている。余計な心配をかけたくない。だから風見のことも黙っていたのだ。

 けれど、ちょうど今日、父が帰ってきたら打ち明けてみようと思っていたところだった。今週末、風見から昆虫採集に誘われている。家の人から許可をもらえたら、という約束だが、父どころか祖母さえも認めてくれそうにはない。

「学校のお友達と遊んでいてくれると、おばあちゃんは安心なんだけどな」

「図書館行ってくるね」

 咲希は部屋を飛び出した。風見の良さをわかってもらおうと懸命に話をするほどに、印象を悪くしてしまう。それがいやだった。

 本の入ったビニールバッグを手に家を出た。建ち並ぶ高層マンションに夕日は隠れ、長い影が連なって歩道を覆っている。

 図書館へ向かおうと思っていたはずなのに、咲希の足が向かったのはあの空き地だった。

 こんな時間に突然訪れて、一体何がしたいのか自分自身わからなかった。それでも門に近寄ると、生い茂った木々の合間から漏れる、オレンジ色の光に心が安らいでいく。風見が家にいる。ただそれだけのことだというのに。

 インターフォンを押そうとして、伸ばしかけた手を止めた。

 週末の相談をするのなら、家族の話をしなくてはならなくなる。自分が悪く思われていることを知れば、風見は何を思うだろう。一緒に過ごす時間を純粋に楽しいものにしたいのなら、こんな話をするべきではない。

 ここに何をしにきたの。温かな光を見つめながら、もう一度自問する。行動と矛盾した感情が、頭の中をぐるぐると巡っている。

 窓に引かれた薄いカーテンに人影が映った。咲希は背中を向け、暗くなり始めた道路に向かって、逃げるように駆け出した。

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